実は、最近よく考えることです。
某ツールのほうでちょっと前に膨大な文字量の日記を書いたんです。
共感してくれる人もいたけど、共感してもらうのが目的じゃなくて、独り言だったんです。
自分のために書く日記。
自分が今・現在考えていることを後々になって見たときに、その瞬間瞬間をこう考えて生きてたんだっていう軌跡を辿るため。
ま~あたしも人間ですから、共感してもらったり、意見をいただいたりするのは嬉しいし、それまた勉強になります。
どちらかといえば、共感してもらうことよりも、他の意見をいただくほうが自分のためになると思います。
一昔、いやちょっと前までは、自分に対して否定的な意見(まあ、言い方にもよるけどさ)だと、どうしても自分も迎撃体制になってしまう。
表面上はありがとうって言いながらも、中身は殺ッッ!!って思うこともあります。
↑最近、あたしと(今現在ではそんなに苛立つこともなくなった同じ部署の相方)通称おっちゃんとの間でイラッとしたときにストレス発散のために言う言葉。
どうでもいいことだけど、ちょっとイラッとしたから相方にだけは・・・ってときに使います。
・・・と、話がズレたけど、まぁうちの部署の近くにいるおねいさんが熱いお人ではあるんです。
最近一緒に仕事をするようになってヒステリー併発して、理不尽なことで怒られたりと、結構なモンスターぶりを発揮してくださる。
でも、一時期自分が大荒れの時は、いろいろ話しを聞いてくれて、彼女なりの意見をあたしにくれていたんです。
後は、女は誰かに話すと意見やらなんやらが整理できるものだって言いますよね。
彼女に話すことで、あたしはごっちゃごちゃの頭を整理できることもあったのです。
今年に入って、ある仕事がひと段落して、違う仕事(社内システムの開発)をすることになってから、今までいい人・頼りになる人・尊敬する先輩であった彼女を憎たらしく思うこともしばしば。
自分から話かけるのも嫌だし、話しかけられるのも嫌というくらい嫌っていたこともあったのです。
でもね、ココとか自分の持っている日記を読み返したときに、自分が如何に排他的で凝り固まった考えの持ち主であるかを思い知ったのです。
意見を伝えることは大切なことだけど、他人の意見を受け入れることも同じくらい重要だということに今更気付いた感じ。
軌跡を辿ると自分が狭い世界で棲息していて、頑固なちっちゃい考え方しかできないクソみたいなやつだって思った。
あと、昔とは文体とか変わったけど、中身は変わっていない事実に気付いた。
今も昔も友好的に見せかけて、なんとまぁ排他的。
だから、自分が好意を抱いている人に対しては、献身的なところがあったり、素直に受け入れられるんだけど、全く好意がない人に対しては徹底的に噛み付く弱犬。
ホント、臆病な弱犬・駄犬ってのはピッタリな表現だったのかもしれない。
へりくつばかり言って噛み付いて、もういいもん!っていうパターンが多い。
環境の変化で、ちょっと生活が変わったら自分自身全体が変わってるって勘違いしたりしてね。
まぁ、それはそれでいいんじゃないかと思うけどね。
でも、それがずっと続いているのは微妙なんだよね。
発信するほうの力は、それなりにあったんだと思う。
当時は、自分のため自分のためとか言いつつ、やっぱり誰かに見てもらいたいという欲求から日記をつけていた部分がある。
実際の人付き合いでも、そこそこ自分の意見はなんだかんだで伝えてきたと思う。
ただね、受信するほうの力は、そんなにないよね。
一時的にわかった気でいたり、気をつけたりするんだけど、その場しのぎというか、喉元過ぎるとなんとかっていう感じ。
自分の身についていないことが多々ありました。
今まで、現実でもネット上でも人と衝突する機会が何度もありました。
その時を思い出すと相手方がどうだったかは今ではご本人方に聞くことは多分難しいので、
自分の綴った偏見を元に一般的にはどうだったかということを予想することしかできないけど、
自分に関してはね、やっぱり排除って考えばかりだったんですね。
まぁ、頭の悪い自分が言うのもなんだけど、相手方も頭の悪い人が多かった気もするんだ。
頭の悪いもの同士の衝突なんて、何もよいこと生まれないんだな。
周りに飛び火して、誰かが仲裁。
でも、結局表面上は仲直りしても、もう要らない!って思う自分。
人間関係の構築は難しく、壊すのは簡単ということを物語ってる。
壊すことに関しては、故意にやったかどうかはわからないし、ふとしたことで衝突が起こったのかもしれない。
でも、構築・再構築に関しては自分が意欲的にやっていかなければ、できないことだよね。
自分の好き・嫌いで付き合いを制限してました。
そりゃ、人間だから好き・嫌いはあるだろうし、どうでもいいって領域もあったりとか様々だけどさ。
あたしの場合は、嫌=すべて否定っていう式が出来上がっていて、そういう考え方もあったんだねっていうことすらない。
そりゃ、狭い世界の人間になるさ。
未だに凝り固まった考え方や感じ方は変わらない部分が大きいけど、それでもちょっとは意識するようになった分、少しは変わったかなぁ・・・。
所謂、嫌いな部類の人に関しても、自分にはないものを持っているし、自分にはできないことをできるんですよね。
そう考えたら、
『そいつのことは嫌いでもいいけど、世界はちょっと広げたいから意見だけ聞いてみようか。
要らなかったら、その時にそれを捨てればいいや。』
という考えになってきた。
まだまだ、修行中の身なので成長できるかとかそんなことはわからないし、頭に詰め込めてもどっかに吹っ飛ぶようなことかもしれないけど、何でもとりあえず聞いてみようっていう気持ちになったよ。
自分の敵(?)は、作らないにこしたことはないわけで、何にしても選択肢は多いほうがいい。
自分がどうなったかは、自分がなかなかわからないけれど、自分の周りに自分のダメなところとか、嫌なところを教えてくれる人がいたからいろんなことを知ることができたんだと思います。
自分が好意を抱いていて、大切な人だったら、100人が100人同じ考えかはわからないけれど、嫌だと思う人間もいるんだってことを何かしら伝えようという努力をするものです。
嫌だということを本人に伝えるには、いろいろな感情が邪魔してなかなか難しいものだと思います。
自分はどうしても感情的になってしまうし、好きな相手であればあるほど、嫌われたくないという気持ちが制限をかけてしまうところがあります。
でも、大切である気持ちが強ければ強いほど、伝えなきゃいけないこともあるんじゃないかと思ったり。
そう思うと自分にいろんなことを発信してくれた人は、すごく大切だなって思うんです。
嬉しいことで、ありがたいこと。
だから、素直に受け入れようと思うようになりました。
まだ、完全に受け入れられるというところまではいってないけれど、なぜ?どうして?という気持ちを持って、そのことと向き合うようになりました。
そして、また自分の意見やら考えやらを発信して、相手から受信して・・・っていうやりとりをしていく中で、関係を構築していくことができるんだと思いました。
まぁ、最近よく考えることともあって、他の日記でも書いているようなことなんですがねぇ。
ちょっと、いろいろ考えてたので、書いて自分の気持ちを整理ということで(笑)
某ツールのほうでちょっと前に膨大な文字量の日記を書いたんです。
共感してくれる人もいたけど、共感してもらうのが目的じゃなくて、独り言だったんです。
自分のために書く日記。
自分が今・現在考えていることを後々になって見たときに、その瞬間瞬間をこう考えて生きてたんだっていう軌跡を辿るため。
ま~あたしも人間ですから、共感してもらったり、意見をいただいたりするのは嬉しいし、それまた勉強になります。
どちらかといえば、共感してもらうことよりも、他の意見をいただくほうが自分のためになると思います。
一昔、いやちょっと前までは、自分に対して否定的な意見(まあ、言い方にもよるけどさ)だと、どうしても自分も迎撃体制になってしまう。
表面上はありがとうって言いながらも、中身は殺ッッ!!って思うこともあります。
↑最近、あたしと(今現在ではそんなに苛立つこともなくなった同じ部署の相方)通称おっちゃんとの間でイラッとしたときにストレス発散のために言う言葉。
どうでもいいことだけど、ちょっとイラッとしたから相方にだけは・・・ってときに使います。
・・・と、話がズレたけど、まぁうちの部署の近くにいるおねいさんが熱いお人ではあるんです。
最近一緒に仕事をするようになってヒステリー併発して、理不尽なことで怒られたりと、結構なモンスターぶりを発揮してくださる。
でも、一時期自分が大荒れの時は、いろいろ話しを聞いてくれて、彼女なりの意見をあたしにくれていたんです。
後は、女は誰かに話すと意見やらなんやらが整理できるものだって言いますよね。
彼女に話すことで、あたしはごっちゃごちゃの頭を整理できることもあったのです。
今年に入って、ある仕事がひと段落して、違う仕事(社内システムの開発)をすることになってから、今までいい人・頼りになる人・尊敬する先輩であった彼女を憎たらしく思うこともしばしば。
自分から話かけるのも嫌だし、話しかけられるのも嫌というくらい嫌っていたこともあったのです。
でもね、ココとか自分の持っている日記を読み返したときに、自分が如何に排他的で凝り固まった考えの持ち主であるかを思い知ったのです。
意見を伝えることは大切なことだけど、他人の意見を受け入れることも同じくらい重要だということに今更気付いた感じ。
軌跡を辿ると自分が狭い世界で棲息していて、頑固なちっちゃい考え方しかできないクソみたいなやつだって思った。
あと、昔とは文体とか変わったけど、中身は変わっていない事実に気付いた。
今も昔も友好的に見せかけて、なんとまぁ排他的。
だから、自分が好意を抱いている人に対しては、献身的なところがあったり、素直に受け入れられるんだけど、全く好意がない人に対しては徹底的に噛み付く弱犬。
ホント、臆病な弱犬・駄犬ってのはピッタリな表現だったのかもしれない。
へりくつばかり言って噛み付いて、もういいもん!っていうパターンが多い。
環境の変化で、ちょっと生活が変わったら自分自身全体が変わってるって勘違いしたりしてね。
まぁ、それはそれでいいんじゃないかと思うけどね。
でも、それがずっと続いているのは微妙なんだよね。
発信するほうの力は、それなりにあったんだと思う。
当時は、自分のため自分のためとか言いつつ、やっぱり誰かに見てもらいたいという欲求から日記をつけていた部分がある。
実際の人付き合いでも、そこそこ自分の意見はなんだかんだで伝えてきたと思う。
ただね、受信するほうの力は、そんなにないよね。
一時的にわかった気でいたり、気をつけたりするんだけど、その場しのぎというか、喉元過ぎるとなんとかっていう感じ。
自分の身についていないことが多々ありました。
今まで、現実でもネット上でも人と衝突する機会が何度もありました。
その時を思い出すと相手方がどうだったかは今ではご本人方に聞くことは多分難しいので、
自分の綴った偏見を元に一般的にはどうだったかということを予想することしかできないけど、
自分に関してはね、やっぱり排除って考えばかりだったんですね。
まぁ、頭の悪い自分が言うのもなんだけど、相手方も頭の悪い人が多かった気もするんだ。
頭の悪いもの同士の衝突なんて、何もよいこと生まれないんだな。
周りに飛び火して、誰かが仲裁。
でも、結局表面上は仲直りしても、もう要らない!って思う自分。
人間関係の構築は難しく、壊すのは簡単ということを物語ってる。
壊すことに関しては、故意にやったかどうかはわからないし、ふとしたことで衝突が起こったのかもしれない。
でも、構築・再構築に関しては自分が意欲的にやっていかなければ、できないことだよね。
自分の好き・嫌いで付き合いを制限してました。
そりゃ、人間だから好き・嫌いはあるだろうし、どうでもいいって領域もあったりとか様々だけどさ。
あたしの場合は、嫌=すべて否定っていう式が出来上がっていて、そういう考え方もあったんだねっていうことすらない。
そりゃ、狭い世界の人間になるさ。
未だに凝り固まった考え方や感じ方は変わらない部分が大きいけど、それでもちょっとは意識するようになった分、少しは変わったかなぁ・・・。
所謂、嫌いな部類の人に関しても、自分にはないものを持っているし、自分にはできないことをできるんですよね。
そう考えたら、
『そいつのことは嫌いでもいいけど、世界はちょっと広げたいから意見だけ聞いてみようか。
要らなかったら、その時にそれを捨てればいいや。』
という考えになってきた。
まだまだ、修行中の身なので成長できるかとかそんなことはわからないし、頭に詰め込めてもどっかに吹っ飛ぶようなことかもしれないけど、何でもとりあえず聞いてみようっていう気持ちになったよ。
自分の敵(?)は、作らないにこしたことはないわけで、何にしても選択肢は多いほうがいい。
自分がどうなったかは、自分がなかなかわからないけれど、自分の周りに自分のダメなところとか、嫌なところを教えてくれる人がいたからいろんなことを知ることができたんだと思います。
自分が好意を抱いていて、大切な人だったら、100人が100人同じ考えかはわからないけれど、嫌だと思う人間もいるんだってことを何かしら伝えようという努力をするものです。
嫌だということを本人に伝えるには、いろいろな感情が邪魔してなかなか難しいものだと思います。
自分はどうしても感情的になってしまうし、好きな相手であればあるほど、嫌われたくないという気持ちが制限をかけてしまうところがあります。
でも、大切である気持ちが強ければ強いほど、伝えなきゃいけないこともあるんじゃないかと思ったり。
そう思うと自分にいろんなことを発信してくれた人は、すごく大切だなって思うんです。
嬉しいことで、ありがたいこと。
だから、素直に受け入れようと思うようになりました。
まだ、完全に受け入れられるというところまではいってないけれど、なぜ?どうして?という気持ちを持って、そのことと向き合うようになりました。
そして、また自分の意見やら考えやらを発信して、相手から受信して・・・っていうやりとりをしていく中で、関係を構築していくことができるんだと思いました。
まぁ、最近よく考えることともあって、他の日記でも書いているようなことなんですがねぇ。
ちょっと、いろいろ考えてたので、書いて自分の気持ちを整理ということで(笑)
コメント